アストンマーティンへの軌跡 その7 ヘリコプターパイロット
1989年はバブルまっさかり。
「なるほどザワールド」に出演していたとき、
「日本では今、ヘリコプターの数が増えています。パイロットが足りません」
といった特集がありました。
フジテレビの第4スタジオで収録をしていたとき、ふと、
(これだ!)
とひらめきました。
(年齢は29歳で再就職にはきついけど、ヘリコプターのパイロットライセンスを取得すれば、良い条件で就職はあるのでは?給料が良ければ、アストンマーティンを買うことも夢じゃないのでは?)
そう思った私は、芸能界を引退して、パイロットの学費稼ぎのため、芸能活動の傍らでやっていたイベントの舞台制作のアルバイトに専念です。
時は1989年から1990年。
東京では各地でイベントが開催されており、仕事はいくらでもありました。
幕張で最初の東京モーターショーが開催された時期でもあります。
このモーターショーの舞台制作も参加させていただきました。
このときは、アストンマーティンはビラージュの新型を初プレミアしたときでもあります。
一般公開よりも先に、いち早く、アストンマーティンビラージュを拝見。
アウディから流用した角ばったヘッドランプと手作りのボディのカーブラインが合っていなくて、
(なんか作り悪いな......)
が第一印象でした。
48時間ぶっ続けで働いたり徹夜で働いたりしながら金を作りました。
バイトしながら、
事業用回転翼操縦士(日本のプロフェッショナルヘリコプターパイロット)の学科試験や、特殊無線丙とレーダーの学科試験、航空級無線通信士も受験して取得。
ヘリ学校の頭金を貯め、足らない分はオリエントファイナンスからローンを組み、渡米してヘリコプターの訓練を受けてアメリカの免許を取得。
アリゾナ州スコッツデール空港で訓練中の筆者
アメリカの免許を日本の自家用ライセンスに書き換えて、日本の八尾空港で日本の事業用の訓練を受けて、日本におけるプロフェッショナルパイロット(JCAB事業用回転翼)の免許も取得しました。
ローンに追われながらの訓練だったので、ガラス工場や飯場でバイトに明け暮れ、週一回だけ八尾空港に行くような生活が5年ほど続きました。
5年かけて日本におけるプロフェッショナルパイロット(JCAB事業用回転翼)の免許を取得。
日本で訓練中の筆者 舞洲ヘリポートにて
この当時は1995年。
バブルは崩壊、ヘリパイのニーズは激減。
それでもまだパイロットの就職はあったのですが、タービン限定を持っていないので就職の話は流れました。
この時期、ローンの返済とパイロット実地試験のストレス、それにタービン限定を取得する金がないので就職を泣く泣く断ったことなど、ストレスが貯まりまくり、生きるのにホトホト疲れ果てて、近所にある15階建てのビルの屋上に2回ほど登ったことがあります。
この当時話題になった完全自殺マニュアルによりますと、
(7階建て以上のビルで地面がアスファルトかコンクリートならばまず助からない)
らしいので、ここから飛び降りたら絶対助かりません。
この世は地獄、地獄からの解放。
危険な誘惑。
でも、実際に死ぬ気になって下を見下ろすと、非常に怖いのです。
パイロット訓練で高度300メートルを普通に飛行している私。
間違っても高所恐怖症ではありませんが、いざ、命を絶つ、となると、やっぱり怖い。
(よく考えてみれば、金さえなんとかすればいいのでは?)
意気地なし。
で、タービン限定を取得するための金を作るために、パチンコ屋の店員や桃の行商、焼き芋屋をやってオリエントファイナンスのローンを返しながらタービン限定を取得するための金を作りました。
タービン限定を安く取得できるので、オーストラリアにシドニーのバンクスタウン飛行場で訓練してタービン限定を取得。
帰ってきてから、知り合いの依頼で空中撮影の仕事などもしましたが、あまり金にはなりませんでした。
仕方がないので、ヘリ関係ですがヘリの運航には携わっていない会社に就職しました。
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